2017年8月31日木曜日

猫いるいるいる日本史

鳥獣戯画に猫絵もあった(しかも可愛い)、お公家さんが猫を所望するお手紙、などなど猫にまつわる日本史の読み直しが楽しい。猫好きの小林一茶の話はもっとあって欲しかった。

カリスマ、カメジロー

南アフリカ、反アパルトヘイトの闘いで言えば、マンデラ氏にあたるのではないかと思うが、瀬長亀次郎さんが国会議員だった頃のことはおぼろげながら覚えている。

マンデラさん以上に尊敬するのは、非暴力であり、法に則った闘いを、ずっとずっと粘り強く続けたこと、そして沖縄の人々がそれを支えたこと、否、お互いが支えてきたこと。

とはいうものの、南アとか、或いは私がこれまで担当した地域であるシリア・エジプト・ギリシャ・イランといったところの人権状況ほどには知識も薄かった、沖縄。

薄かったなりに、教会で行ったセミナーで教わったことで(もう二昔ほど前になるが)米軍統治下の沖縄は知っているつもりになっていた私だが、酷く打ちのめされるくらい、米軍の沖縄に対する仕打ちは酷かった。
ユーロが連日満席に近いのはよいことだけど、沖縄について心無い言葉を投げつけるような人にこそ観て欲しい映画なのだが、それにはどうしたらいいのでしょうか。

そういう意味では配給の彩プロ、超キワモノ映画特集するとか変な邦題・パッケージで旧ソ連圏の戦争映画を玉石混交でDVD発売という印象しかなかったんですが、こんな真っ当なお仕事もされているのですか。
ミリオタの落としたお金の有効活用、喜ばしい限りです。
一味違った層が観に来るということがちょっとでもあったらなあと思います。
(以前、東京ロシア語学院でやっていたロシア映画近作紹介の会で、いつも年齢層が高かったのに、アルトゥール・スモリヤニノフくん主演の「第九中隊」をやったとき、軍装??めいたミリオタっぽい若者(じゃない人もいたけど)がどどっと来ていて、新鮮っていうかちょっと驚いたことがありましてね。)


あら、と不思議に思ったのは沖縄が日本に復帰する前の1970年に、既に瀬長さんが国会議員になっていたということ。
そりゃあ、選挙すれば沖縄では絶大な支持を得ているのだから当選しますよね。
よくわからないけど、「本土復帰」の前に沖縄で日本の国政選挙があったということなんですね。


2017年8月30日水曜日

録画メモ

「コロニア」
「アルバート氏の人生」

「コロニア」はピノチェト政権下に実在した狂気のナチス残党の巣窟の話。怖いよ~。でも、普通の人達に紛れ込んで生き延びたナチス残党ももっと怖いかも。

チリの闘いからノスタルジーまでの狭間で

 去年「チリの闘い」を観て振り返るのによい頃だったのみならず、起こったことをなかったことにする、忘却させようとする何やらが蠢くのを感じる今日この頃誠にタイムリーな企画になってしまったこと。「ピノチェト・ケース」「チリ、頑固な記憶」「サルバドール・アジェンデ」のDVDも是非作って!

圧倒的な情熱を込めた「チリの闘い」から癒しと慰めにフォーカスされていくような「光のノスタルジー」「真珠のボタン」に至る途上にあるこれらの作品、再見して改めて感動する。DVD化望みます。

「チリ、頑固な記憶」ようやくピノチェトが失脚して、作家オルテガが送った楽譜で若い楽隊がベンセレモスを演奏して街を歩く。涙ぐむ人、Vサインする人、物珍しそうに見守る若い人。23年ぶりだったと。
「チリの闘い」上映前後の若者達の発言も興味深い。ネタばれすると、ショックで泣き出す。
ドキュメンタリー観る前は「共産主義者を駆逐するためには犠牲もやむなし」みたいなこと言う人もいるのだ。ピノチェト政権下で生まれ育った若者の中には。(「ピノチェト・ケース」ではピノチェトの友人が他の南米の国と比べると犠牲はちょっとだった」と堂々と言っているけど。)観た後の衝撃の涙は尊い。

「ピノチェト・ケース」において、ピノチェト告発に関しては、当初チリ本国で人身保護命令申立をすれどもすれども却下され続け、英国滞在中のスペインでの告訴で事態が動き、英国でも引渡に関して司法界で綱引きが行われ…と、人権の国際化の流れと法曹の国を越えた連帯が感動もの。
このドキュメンタリーには、当然ながら、アルゼンチンの独裁政権に対する言及もちらっと出てきます。
ただ、少なくとも日本では(世界的には不明)ピノチェトに比べてビデラの悪の知名度はかなり低いですね。告発側の文化人に、チリには大物が多いようなのが、その差になっているのでしょうか…。
この私のツイートに関して、ピノチェトがほぼ単独の独裁だったのに対して、アルゼンチン等は陸軍による集団的なものだったからではないかとの興味深い示唆をいただいています。
そう言えば、私がアムネスティに入った頃(1990年代)は、中南米独裁政権への抗議と彼の地の良心の囚人支援が盛んに行われていたのだけれど、責任者を明らかにして処罰してくださいという手紙を何度も書いていた…。
あと、スペインのフランコ独裁とポルトガルのサラザール独裁の違いについては、市之瀬先生が書かれていたなあ。

8月27日日曜日夕刻、渋谷ハチ公前でヘザー・ヘイヤーさん追悼集会に参加しました。
「チリ、頑固な記憶」でのピノチェト政権下友人を殺された人が言う「過ちは多くのことを忘れようとしたこと。彼の死をもっと泣けばよかった。」という言葉が思い出されてならないのです。

2017年8月27日日曜日

オデッサの春 ユモリーナと「コメディアーダ」報告を聞く

久々の桑野塾でオデッサでのクラウンフェスティバルのレポートを聞く。
そしてクラウン達の映像も見せていただいた。
ククラチョフさんが猫劇場でやっているようなことを鶏でやる人とか、皿回しとフリスビー犬の同時並行とか、コッペリアの男性版←完璧!等々、素敵なクラウン沢山見てただただ幸せ。
紛争越えての開催実現とあって感動もひとしおでした。

で、最後にやや唐突にサバトラの猫の写真が映し出され、

講師曰く「岩合さんに教えてあげたい、オデッサは猫が多くて、しかも可愛い!
それ、知ってた。

10年前のオデッサだけど、素敵な猫たちに会えた。
私的ネコ歩き向け№1の街オデッサ。


ペテルブルグでもそうだけど、ネコの気配に満ちた街。
足元にも、

見上げても、

ねこいるいるいる。

日本で言うと尾道。
だが、こちらは美術館内にも猫様は住まうのだ。




(尾道だと折角訪ねてきた美術館を追い返されてしまう。)

オデッサと言えばあの階段…
 





なのに、それが崩落してしまったんだそうです。
その後しばらく放置されていた!
けれど、ようやく修復に乗り出し、この8月には直っていたというのですが、今度はコンクリート造りになっているっていうので、あの映画の風情を求めて訪れると厳しいのかも。

オデッサは4月1日をユーモアの日として祝日にして、愚者を祝う。
1997年当時のユモリーナでは、市民たちは市役所前から海岸通りをリュシュリュー像がある辺りまで練り歩く。これが楽しい、とおっしゃる。
ソ連圏伝統のグリャーニエ(練り歩き)なのですね。

今年のユモリーナでは、仮装大会化しており、コスプレイヤーがパレードして市民は沿道で撮影する感じに変化したとのこと。

2014年冬以来のウクライナとロシアの紛争はウクライナ南東部のオデッサにも深く傷を残し、伝統のユモリーナも2回の中断を余儀なくされ、2016年に復活。
クラウン・フェスティバルであるコメディアーダも開催が危ぶまれたのですが「こんな時だからこそ笑わせてくれよ!」という強い要望があって無事開催されました。

オデッサはロシア帝国内ではかなり新しい都市で(オデッサ>ペテルブルグ>ニューヨーク順で歴史が浅い)、国際的な港町、多民族・インターナショナルで華やかで明るくユーモア好きな人びとのいる街として発展してきました。
ソ連の中でも独特の文化が花開き、文学・演劇・映画で確固たる地位を築いてきました。
(ちなみにロシア語圏であり、ウクライナ文学の中での位置づけはちょっとわからないです。)
ソ連ジャズ発祥の地としても有名ですね。

しかし、一方で度々の戦禍に見舞われ、
 
ポグロム(ユダヤ人虐殺)も起き、犯罪率は相当に高いらしく、最近では東ウクライナ分離紛争絡みでチェルノモーレツ・オデッサ対メタリスト・ハリコフとのサッカーの試合後の暴動から多くの人が焼き殺されるという何とも凄惨な事件が起こったあの日を忘れることはできません。
(どうしよう、どうしようと思いながら何もできず、どうしてあんなことが起こってしまったのか未だに理解できない。だからだからです、考えが違うからとその存在を否定するような差別主義者を放置していたら、本当に人を焼くようになってしまうと、強く戒めて、レイシズムには抵抗していくことにしたのは。)

オデッサは試練を笑いで乗り越える。
やはりそうだったのだとわかって、すごくほっとしています。
今でも猫に優しい猫の街だっていうことにも。

2017年8月24日木曜日

夏の広島④袋町小学校平和資料館

三瀧寺から中心部にバスで戻って、市内散策ですが、これまでは平和公園周辺の記念碑めぐりすることが多かったので、今回は公園から少し離れたところの遺跡や碑などを訪ねてみることにしました。

真心像
原爆の洗礼を受けた広島市に本拠を置く広島市信用組合が本店新築を記念してここに清純な古代の乙女の像を設置して永遠の平和と繁栄を祈念します。
昭和三十八年十月十三日   今井稔 撰
 

アストラムライン「袋町」駅地下道出入り口にある説明

昼食はショップ併設のカフェのようなところで冷製パスタ。
しかし、注文してから前日夜もスパゲティだったことを思い出したのですが。


道の向かいに袋町小学校平和資料館が見えます。
続々と入館する人。
先生に引率された小中学生や、グループ行動らしき生徒さんたち、大人たちも集団で、次々に入っていくのが見えます。




リーフレット、日本語のものは品切れになっていました。
残っているのは英文のみ。
先生なのかな?生徒さんたちに説明をしていた男性が「土日は小学校が閉まっているので補充できなくてすみません」とおっしゃっていたけれど、5日土曜にお昼になくなってしまっていて、明日も続々訪問者がありそうなのに…。
Webからダウンロードしてプリントアウトすることは可能(私はそうしていた)ですが、残念なことです。

袋町小学校は爆心地から約600メートル。
1945年8月6日当時、学校にいた児童160人と教職員16人、うち生き残っていたのは校長・教頭と児童3人のみ。
当時としては珍しかったのではなかったかと思われますが、西校舎は地下室付きの鉄筋コンクリート造りの校舎で、ここの地下室にいたり、グラウンドから運動靴を取りに戻ったという偶然により生き延びたようです。
(地下室に詳しい証言や説明の展示やビデオがあります。)
木造校舎部分は当然ながら倒壊・焼失しました。

焼け残った西校舎は翌日から救護所となりました。
そして、壁には、被爆者の消息を知らせる伝言が数多く残されました。
それが現在でも保存されています。

伝言について詳細な説明をしてくださった。

壁に残る伝言文字現物

地下の扉

各地の学校から折り鶴や寄せ書きが送られている。
ここでも折り鶴を捧げて来ました。

袋町小学校の校庭では盆踊りの準備が進められていました。

2017年8月20日日曜日

作家とサッカー23 鬼才エミール・クストリッツァ

『夫婦の中のよそもの』23ページ「すごくヤなこと」
 その渦から逃れるように、ゼコはセーターの袖の石油の染みが付いた部分を隠しながら台所へ。そうやって袖の先を引っぱり伸ばして握りこむというのは、パルチザン・ベオグラードのフォワード、ヴコティッチが試合に絶対勝つと決意を固めたときにやるのと同じだ。

夫婦の中のよそもの
夫婦の中のよそもの

夏の広島④三瀧寺(続続)

先を急ぎましょう。
三瀧寺の残りの写真です。
その名の由来の三つの滝(駒ケ滝、梵音の滝、幽明の滝)、被爆建物(鐘楼・三鬼権現堂・鎮守堂)。


補陀落の庭に注ぐ滝は枯れちゃっていた。
本堂下から参道の方に水が流れるように誘導されている。
確かに涼し気な雰囲気だが、(日陰だし)それでも汗が噴き出てくる。
夏は暑い。(結論)








2017年8月19日土曜日

コッカー、遂に故郷に錦?

チェルチェソフさんが、8/28~9/3ノヴォゴルスクでの合宿、及び9/3のディナモ・モスクワとの練習試合に呼んだロシア代表、初選出が多い次の28名。

GK
アンドレイ・ルニョフ(ゼニット・サンクト=ペテルブルグ)
アレクサンドル・セリホフ(スパルターク・モスクワ)
アンドレイ・シニツィン(FKクラスノダール)

DF
ウラジーミル・グラナト(ルビン・カザン)
ルスラン・カムボロフ(ルビン・カザン)
エリミル・ナビウリン(ルビン・カザン)
ヴャアチェスラフ・カラヴァエフ(スパルタ・プラハ(チェコ))
イリヤ・クテポフ(スパルターク・モスクワ)
ロマン・ノイシュテッター(フェネルバフチェ(トルコ))
マリオ・フェルナンデス(ツェスカ・モスクワ)
エヴゲニー・チェルノフ(FKトスノ)
ヴィタリー・シャホフ(FKトスノ)

MF
ウラジスラフ・イグナチエフ(ロコモチフ・モスクワ)
アレクセイ・ミランチュク(ロコモチフ・モスクワ)
アントン・ミランチュク(ロコモチフ・モスクワ)
ドミトリー・タラソフ(ロコモチフ・モスクワ)
ダレル・クジャエフ(ゼニット・サンクト=ペテルブルグ)
マゴメド・ミトリシェフ(アフマト・グローズヌィ)
パーヴェル・モギレヴェツ(ロストフ・ロストフ=ナ=ドヌ)
マゴメド・オズドエフ(ルビン・カザン)
ヴャチェスラフ・ポドベリョズキン(FKクラスノダール)
コンスタンチン・ラウシュ(ケルン(ドイツ))
ドミトリー・ストツキー(FKウファ)
デニス・チェリシェフ(ビジャレアル(スペイン))

FW
アントン・ザボロトヌィ(FKトスノ)
ウラジーミル・イリイン(ウラル・エカテリンブルグ)
マクシム・カヌンニコフ(ルビン・カザン)
キリル・パンチェンコ(ディナモ・モスクワ)

親善試合の相手、見つけられなかったんですかね。
ディナモ・モスクワ相手の試合で、そのディナモからはプレミア復帰の立役者パンチェンコ一人。
トスノから3人は異例では。
国外リーグの選手もちらほらいて、まずは久しぶりに親子鷹のチェリシェフ、お戻りのノイシュテッター、プラハからカラヴァエフ。
そして、ノイシュテッターと同じような境遇、つまりドイツ系ソ連人の系譜であるラウシュ、ロシア国籍取っていたんですね。
アレクサンドル・メルケル(結局カザフスタン代表になった)がロシア代表入りを希望していた頃、旧ソ連領内出身の民族的にはドイツ系の選手として一時注目されていたけれど、当時は「ロシア国籍はないけれど、ロシア(トムスク)生まれだからすぐ取れるはず、代表呼ばれれば前向きに検討」と言っていた、ペリメニ大好きさんのコッカー、遂に呼ばれたか。
しかしやはりBチーム感は否めない。

2017年8月16日水曜日

録画メモ

生きうつしのプリマ(ドイツ)
ふたりのヴェロニカ(ポーランド)

2017年8月14日月曜日

作家とサッカー22 鬼才エミール・クストリッツァ

『夫婦の中のよそもの』

「おへそ、魂の門」130ページ
「おばさん、アシム・フェルハトヴィチと知り合いだったら良かったんだ!そしたらFKサラエヴォの試合をただで見れたかもしれないのに!」
「アレクサ!アナおばさんは革命の闘士なんだから!なんでそんな幼稚なことを言うの?!」
「ハーセは幼稚じゃないよ!」
ぼくは腸(はらわた)が煮えくり返っていた。ディナモ・ザグレブを向こうの本拠地で3-1で討ち取ったハットトリック選手を馬鹿にしようというのなら、もうぼくだって爆発する!
「別にフェルハトヴィチ選手がどうとかじゃないけど、あんたのおじいちゃんたちはどっちもお役人だったんだしさ、あんたも本が嫌いってわけはないでしょ!」
「別にサッカー選手が好きだからってぼくもサッカーするわけじゃないし!そっちの思い通りになんかならないからね!」

大物来た~~~~~!って感じ!
映画界の鬼才クストリッツァが音楽界のみならず文学界にも大進出!

そうか。
やはり現代にいたる南スラブヴ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが舞台だと、ファジリ・イスカンデルやノダル・ドゥンバゼの作品ほど涙と共にほのぼの、で終わるようなものではなかったか。
血と涙と狂乱と喧騒が吹き荒れて、結構悲しい。
彼特有の大法螺を聞かされているような感じだ。

それにしても、男の子にとって親の不義はそんなにショックなものだろうか。彼の地では当ったり前なのかという気がしていたが(失礼。何度も結婚離婚している人が普通にいるので)。
その点、最後の表題作の父親の役回りは予想外に地味だった。

好きなサッカーネタもちらちら入って読みやすく、映画のようなジェットコースター気分を味わいつつ、どちらかというと物悲しい思いに浸る。

2017年8月13日日曜日

大物来た

大物来た~~~~~!って感じ!
映画界の鬼才クストリッツァが音楽界のみならず文学界にも大進出!

そうか。
やはり現代にいたる南スラブヴ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが舞台だと、ファジリ・イスカンデルやノダル・ドゥンバゼの作品ほど涙と共にほのぼの、で終わるようなものではなかったか。
血と涙と狂乱と喧騒が吹き荒れて、結構悲しい。
彼特有の大法螺を聞かされているような感じだ。

それにしても、男の子にとって親の不義はそんなにショックなものだろうか。彼の地では当ったり前なのかという気がしていたが(失礼。何度も結婚離婚している人が普通にいるので)。
その点、最後の表題作の父親の役回りは予想外に地味だった。

好きなサッカーネタもちらちら入って読みやすく、映画のようなジェットコースター気分を味わいつつ、どちらかというと物悲しい思いに浸る。

録画メモ

歌声にのった少年
少女は自転車に乗って

2017年8月12日土曜日

広島イラン愛と平和の映画祭2017

東京会場は8/8~8/10で、10日の朝、ツイッター(カフェ・バクダッドのアカウント)で開催を知って慌ててイラン大使館にメールで申し込んだ。
すると、すぐ返信をいただき、申し込みは終了しているが(当然だろう)空席はあるのでおいでくださいとの嬉しいお言葉!

田町まではるばると。


 
 
上映直前にイランの美男美女たちが美少年たちを伴ってどっと押し寄せ、それにしても満席ではなく、まったりと始まりました。
(いや、ほんとうはこのとい後ろの席の男性が手を滑らせてペットボトルのお茶の大半をこぼしてしまい、私の席は大被害。私自身はヒヤッとした程度ですが、座席と上着には大量にお茶がかかってしまいました。席は余裕があったので隣に移り、お隣の女性がとても親切に新品の手ぬぐいを貸してくださるとお声をかけてくださいましたが、タオルハンカチを2枚持っていたので何とか自身はお茶をふき取り、上着は空いている座席にかけて干して…とやっていたら、予鈴とかなくていきなり暗くなって映画が始まりました。携帯をミュートにしていなかったので焦る。)
 
観たのはこの日の3本。
コメディーの「リザード」
アクションもの?「ボディーガード」
歴史再現物「マザーレシャリフ」
 
1998年8月のアフガニスタン・マザーレシャリフ(マザーリシャリーフ)で起きたイラン領事館での外交官殺害事件のことは知らなかったのか覚えていないのか、こんなに酷いことが起こっていたのか記憶にない。
ただ一人の生存者である副領事(当時)が、恐らく国境を越えてイランに入ったところで拘束されて尋問されているところで事件を振り返るという構成なのだろうけれど、尋問している人は何者なのかわからなかった。
彼の証言によると、事件を起こしたのはタリバンではなくて、タリバンを装った地元のパキスタン人?のようだった(結局強盗目的なのか?イランに恨みがあったのか?)が、真相はどうだったのだろうか?
後半は岩波で観た「娘よ」みたいな展開だが、より女性が頼もしい!アフガニスタン女性強し!偉大だ!
 
(書きかけ)


2017年8月10日木曜日

夏の広島③三瀧寺(続)

三瀧寺の入り口にこんな案内板がありましたが、


本堂の奥、三瀧の名水を汲むところで、何やら動くものが・・・。

え?
ほんとにイノシシが出現?!
どうすれば?
と、本気で怖かった。

でも怖かったのは相手の方も同じだったと思われる。
すばしこく、目も止まらぬ逃げ足で社務所の方へ。

一応、追ってみて、そっと覗いてみたら、う~~む、なんだかタヌキ(我が家のダーチャ=父のアトリエ@千葉の横芝)かハクビシンのような。

社務所から、「クゥクゥ」と呼び声が聞こえて、お寺の方が現れ、おっしゃるには
「猫でしたでしょ?」

いえ、猫様ではありませんでした!
タヌキみたいでしたけど、と言うと、その方曰く
「それじゃあ、アナグマですよ。ときどきいるんです。」
あ、アナグマですか。ポターの描くアナグマ、トミー・ブロックが目に浮かぶ私。
「猫かと思って呼んだんですけど、返事がなかったですね」
三瀧寺の猫様は「クゥ」というお名前らしい。
(今回、猫様には結局会えなかった。猫様は→こちら

イノシシじゃなくてよかった~。
どうしていいかわからなくて一瞬立ちすくんでしまったよ。

あとは蝶とカナヘビみたいなキラキラ光るトカゲがいました。


三瀧寺の名水は平和記念式典に献水している清水16か所の一つだそうです。
名前の由来となった三つの滝のうち幽明(ゆうみょう)の滝があって、ここで水を汲むのですが、大きなペットボトルのおじさんがずっと水を汲んていて近づけませんでした。
(書きかけ)

2017年8月9日水曜日

夏の広島②三瀧寺

こちらのお寺は鐘楼の前に、「拝観料200円入れてください」という箱が置いてあるのですが、案内のハンドアウト類は一切ありません。
(お金は帰りでもよいと書いてあるし。)
説明板はありますが、見逃す可能性もありますし、予めWEBから案内図を入手しておかれることをお薦めします。

広島駅からバスで約30分。(JRだと2駅。)
中心部からはかなり離れている山にあります。
広島に原爆が落とされた際には、救護所となりました。
また、鐘楼・三鬼権現堂・鎮守堂は被爆建物です。
※爆心地から約3.18km



(あまりにも普通に建っているので、そうは見えなかった。三滝山に切れ込む谷の底に位置しているのが幸いして被爆の際にもほとんど無傷だったといいます。)

これ、鐘楼を越えて茶堂・本坊までの参道は、広電の電車の敷石だとのこと。


そして、アウシュビッツ犠牲者供養平和宝塔。
ここにまず、
 
 
 
折り鶴を捧げました。

そして、原爆慰霊三十三歌碑



③に続く。